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2011/04/30

自己同一性と主語

「初心に戻る」という言葉がある。初心を問うことは自分が何者なのかを問う事、つまり自己同一性、アイデンティティを問うことだ。





自己同一性と青春

アイデンティティと言えば、みうらじゅんのアイデン&ティティを思い出す。映画だと峯田和伸、麻生久美子が出演している。本当のロックを求めた主人公とボブ・ディランの幻想の青春映画だ。青春とは何か。大辞泉には「夢や希望に満ち活力のみなぎる若い時代を、人生の春にたとえたもの。」とある。つまり、人生の若く未熟ながら元気に溢れた時代を指す。一生青春という言葉があるならば、死ぬまで未熟で元気に溢れているとでも言えるだろうか。つまり青春ではないというのは、未熟ではない。もしくは元気に溢れていないということだろう。

青春と言えば旅だ。そこで20歳で世界に旅出た岩本悠著「流学日記」を引用する。

p229
" 今まで、駐在員に旅の話をしても「スゴイネー、若いのに」とか「若いうちだからね」ぐらいの反応しか帰ってこなかったし、これからの夢を語っても「うん、まあがんばってね。でも、十年後に君がなんて言ってるか楽しみだなー」とか言いながら、始めから「ムリに決まってる」って決めつけている人ばっかりでしたよ。
....
そんな冷めた反応に比べて学生は、
「こんなこと考えて行動している奴がいるのに、今の俺はどうなんだ」と真剣にかんがえこんでしまったり...人の話しを聞いて...「自分ごと」にして... "


この章はオッサン、中高年に向けたメッセージだ。この章は情熱を飛び火させて社会を変えてやるよと締めている。何故、学生は自分ごととして捉え、中高年は自分ごととして捉えないのか。若者は'モラトリアム'まっただ中だからではないか。モラトリアムとは 社会的にも認められた大人になるための猶予期間を指し学生や旅人の私を指す。つまり、彼らはアイデンティティを考える時期だからこそ自分ごととして聞けるのだろう。


青春 = モラトリアムや青春→モラトリアムという移行の構図も理解できる。青春には'元気さ'が含まれ、モラトリアムには'よりアイデンティティを問う'ことが含まれていて、両者が等しいのは'未熟'ということだ。その点、中高年はモラトリアムも青春も脱し自己同一している(自信過剰かもしれないが)から決めつけた発言をするのだろう。自己同一し終わった(と思っている、思っていなくても無意識的にそういう状況になっている)一大人がモラトリアム中の人間の発言を「自分ごと」にして捉えない事はどういう事なのだろうか。


奴隷と社会

「奴隷」と言えばガーナで訪れたある城を思い出す。城の上には数人の軍人が住む家々があり、その上には役人が住める素敵な家がある。しかし地下には数百人が押しつぶされそうになりながら生活する真っ暗な奴隷の部屋がいくつかある。軍人に逆らえば、一生出られない小さな部屋行きだそうです。数ヶ月後、黒人達はヨーロッパに船で渡り、白人から命令されながら奴隷として労働した。


奴隷となった人々が自分は奴隷だと認識し死を待つだけの人間となったのか、いつか解放される事を期待し生きてきたのか。彼らがどんなアイデンティティを持っていたのかは想像しかねるが、それも社会だ。しかし奴隷が存在した社会も変化し、その城にはアメリカ大統領からの言葉も掲げられている。


社会のあり方自体が変化しているのは事実だ。大きく違うのは情報社会が社会に入り込んできている事なのも周知の事実だろう。その情報社会に取り残されている人々がマジョリティであり、一部の人間はその社会のあり方の変化に気づいてもいない。


日本の昔話を紹介しながらスローライフについて書いている 名本光男著「ぐうたら学入門」では、勤勉な人が努力と困難を経て成功できる社会ではなくなった。「働かざるもの食うべからず」ではなく「果報は寝て待て」の精神でぐうたらな生き方を選択できるのだと書いていた。自助努力でどうにかなる社会ではなくなったということをNHKのワーキングプア特集で言っていた事を思い出す。


ワーキングプアは社会の変化、情報社会についていっていない人々を示しているのではないか。番組ではシングルマザーで子供2人を育てている20代の母親は働いても生活が苦しいと話していた。また鬱病になった父を持つ20代の女性が調理師免許を持ったが生活が困難だと話していた。自助努力をしても安心して暮らせない。まるで彼らはこの社会という城から抜け出すにも抜け出せない奴隷だ。そして城の上では高々と笑う人間もいる。


かかわり方と主語

情報格差によって奴隷とならないためには情報に対して主語が必要だ。これが玉置沙由里さん @sayuritamaki の言う所だろう。最近、twitterで注目している方でソーシャルメディア革新をしてくれそうな人だ。女。MGの日記(http://d.hatena.ne.jp/iammg/20110428)より引用する。


[エッセイ]ホリエモンと主語のない群れ

‘個人としての「主語」のある言葉が共感されるようになると思う。わたしはこう思うんだ!わたしはこうしたよ。自分を暴露しない言葉に、責任は伴わない。そのことに気づいた人は、主語のある言葉を歓迎するだろう
....
最後に、わたくしのフォロワーさんのコメントを紹介して終わりにしたい。
「Twitterを始める前、私は堀江さんに悪いイメージしか持ってなかった。でも、RTを通じて読んだ彼の文章は.嫌いじゃない、いやむしろ好き。 じゃあ、なんで今まで嫌ってたんだ?と考えて…ゾゾゾっ。 全部テレビの意見じゃないか。私は堀江さんの文章を何一つ読んじゃいない。」’


メディアが流す情報のみではなく、自分がどうするかだ。主体的に情報を取り込み、発信もする必要がある。そこでソーシャルメディアが重要な鍵となっているという事だ。しかし主語を持つだけで自己同一がなっていなければ、岩本悠が言う「オッサン」になりうるのではないか。既存、情報関係なく社会では人とのかかわり方を考えなければならない。

「かかわり方のまなび方」というファシリテーターとしての人とのかかわり方を書いている西村佳哲さんの本がある。この本では自己同一性について書かれている。自己同一しておらずズレを持つ人、つまり自信過剰か過剰に自己卑下をしてしまう人はファシリテーターには向かないという事だ。しかしファシリテーターでなくても人の話を自分ごと、この本で言うPerson Centered Approachで聞けないと「オッサン化」するのだろう。


心理学者、カール・ロジャースが提示したPerson Centered Approachは3つの条件がある。「共感」「無条件の肯定的尊重」「自己一致」だ。各個人に価値観が存在し「無条件の肯定」はできないだろう。しかし「無条件の肯定的尊重」は可能だろう。ソーシャルメディアの活用とPerson Centered Approachで人とかかわる事がアイデンティティを疑い続けながら主語を持つ事が出来るのではないか。ネオオッサン、ネオッサンの誕生だ。


端から「ムリ」を前提にして話すオッサン達は変化する社会の中で自己同一性に欠け、否定的で共感もしない。アイデンティティにズレが生じてきた時に「初心に戻る」ことで、そのズレを修正できるかどうかが「ネオッサン」と「おっさん」の違いとなるだろう。


土台である社会が変化しつつある今、どこが初心で原点なのだろうか。今20代、30代の我々も本当に社会認識と自己認識ができているのだろうか。10年、20年経った時に旅に出る少年が夢を語った時、自分ごととして話を聞けるのだろうか。自信過剰ではない自己認識をしているのだろうか。変化する社会でアイデンティティを模索するモラトリアム期は随所に必要となってくるだろう。私は未だに青春モラトリアム真直中だ。