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2011/05/25

[エッセイ]世界一周に価値はない

以前から思考の中に存在していたが、明確になっていなかった。
しかし友人と電話中にはっきりさせられた。
彼が 「世界一周に価値ねえよ」 と言葉を放ったからだ。
旅人であるこの若者の戯言にお前も同じ類だろ!
と言われてしまうのは当然だ。
少々、私の言葉に付き合って頂きたい。


世界一周とは何なのか。
まずは、世界一周とは何なのかを考えたい。「全大陸に足跡を付けて日本に帰ってくる」これは世界一周の仮定として大前提だろう。某大物芸人のように自力で世界一周達成(これは成し遂げたものだったと思う。)や大勢で大きな船に乗って一周する。などなど、様々な世界一周がある。例えば、全ての大陸に足跡を付ける事なら一ヶ月弱でも可能だ。各大陸に飛行機でいって帰ってくればいいのだから。


さてそこで、旅に重要なものは何か。それは現地を味わう事だろう。いや、それに尽きる。町並み、食、人々。いわゆるCulture Shockを受ける事が旅の醍醐味と呼べる。では一ヶ月で世界一周をしたところで、現地の文化、食、等々どれだけを味わえるだろうか。もし、一ヶ月世界一周で世界を知ったと言うのならばそれは虚無である。もちろんそんな人はいないだろうが。


滞在日数と旅としての質
次に、世界一周とは多数の国に足をつける事と仮定する。世界一周の主流は1年や2年で百数十カ国を訪れることだろう。筆者はいつも疑問に思う。彼らは一つの土地、国にどれだけ滞在したのだろうか。どれだけその土地の文化を味わったか。どれだけ食を堪能できたのか。どんな人と出会い、何を語ったのか。例えば、3日間日本に住んだとしよう。3日滞在して日本の文化を知ることができるだろうか。その3日間の呼吸から発せられる「日本に行ってきた」という言葉にどれだけの味わいが含まれているのだろうか。世界一周を口にする人々にはその傾向があるように思える。各国々で数日、1週間の呼吸を集めた「世界一周」というわけだ。もちろん、1ヶ月以上滞在する場合もあるだろう。そもそも、国を味わったかどうかの線引きは困難ではある。3日で素晴らしい出会いの可能性だってありうるのだから。


周知の事実だが、世界の全てを知る事は無理であると断っておこう。そもそも全ての国に行く事自体、困難だ。また、文化というものを考えた時に、国の中でも県、市に訪れれば全く違う文化、人、ものがある。ましてや、小さい島にいったらそれはもう大変な数になってしまう。それは日本国内のみでも同じ事だ。もちろん、世界一周を試みる人々に各地の隅々全てを訪れ、文化を味わなどという意識は微塵も存在しないだろう。ただ、多くの場所に出向きたい。という意識はあるはずだ。


世界一周の価値
では何故、世界一周もしくは海外旅行に価値を見いだすのか。それは海外に魅力があるからだろう。観光、ビジネス、売春、雑貨、食。などなど色々ある。様々ある。この、色々とか様々とかそんな言葉に表せられないほど複雑に絡み合ってできている。地球を布に例えれば、その繊維ひとつひとつが文化といわれるものなのだ。多くを知れば布の美しさも汚さもわかる。しかしそれを知るには時間とお金と体力が必要だ。筆者が思う海外に行く価値、それは価値観を自由に解放することだ。日本の常識の中で生き続ける事を否定はしない。しかし、その常識に流されて生きる時代ではなくなった。いわゆるグローバル化だ。故に、世界一周を掲げて日本を飛び出す人が増えているのだろう。


月並みな言葉だが、筆者も海外に行く事を推薦する。それは日本を違った視野から見る事が重要だと考えるからだ。人は価値観を自由にする権利がある。日本を愛するのならばこそ、海外に出る事で日本の良さも悪さも気づけるだろう。もちろん、国である日本を見つめ直すだけではなく自分自身を見つめ直すきっかけにもなりうる。ここまでだと、筆者が世界一周を肯定しているように思えるが、そうではない。


セックスしろ
筆者が批判したいこと。それは世界一周がファッションでしかないことだ。世界を歩く事で得られるものは多々あるだろう。しかし、「世界一周を目的とした世界一周」は時代遅れである。観光地、世界遺産には歴史的な価値があるだろう。しかし、歴史的な価値があるからその観光地にいくことは、ファッションでしかない。例えば、デザインを学ぶ人間が世界遺産になっている造形物を見に行く事は目的がある。しかし、ただ単に世界遺産を見て回った所でどんな価値があるのか。


さて、筆者はここで「そこにいる人々とセックスすることが旅の価値を見いだす」と断言する。最初に断るがこのセックスは性的な意味ではない。ここでは各地域のと人々と話し合い、共に食事をしたり、ゲームをしたりすることをセックスと呼びたい。価値観を自由に解放するためには様々な鍵を外していかなければならない。(ナルトでいうチャクラの解放とか)常識という鍵、無知という鍵、そして楽しむという鍵。その鍵を開けてくれるのがセックスなのだ。Into the wild という映画になった本がある。主人公は2年間旅をして、アラスカの地で生きようとする。その主人公が残した言葉がこれだ。

'Happiness only real when shard'
'幸せは人と共有した時だけ現実になる'


世界一周を掲げる人々が全くセックスをしていない。というわけではない。むしろ性的ないみでのセックスもしているだろうし、自由に楽しんでいるだろう。しかし、これから世界一周や海外に出る事を考えているのならば、旅というものを深める必要がある。世界一周を目的とした世界一周ではなく、世界一周や海外への旅は手段であり土台でしかない。そこで何をするのかが問われている。


海外への旅について書いてみたが、これは自分への戒めでもある。前回のガーナ旅は誠に薄っぺらいものだった。旅を吟味し、再び旅に出たい。


追記:
2012/3/18

この記事は多くの人に読んでいただいた。様々な人がリツイートしてくださったのもあるが、まずは青木優君@yuuu_aにお礼を言いたい。この記事の広告塔だったからだ。(僕よりも宣伝してくれた)

正直な所を言うと、このエッセイの批判の対象は青木優君@yuuu_aだった。(ドン!)彼は「世界一周×facebook」というキャッチーな言葉でtwitterにいたので、皮肉れた僕には批判の対象だったというわけだ。今となっては彼の行動力、計画力、アイデア力、スキルこの四点において尊敬している。彼が世界一周をツールとして用いて、その他に目的を持ち、行動している点は僕よりも随分先に行っている。

Gumroad で成功した彼のこちらの記事(と言えば良いのかな?)も読ませて頂いたが、とても良かった。mixiやfacebookで宣伝させて頂いたが、この記事は1000円以上の価値を持っている。そこら辺の有名な旅本を買うよりもまずこれを読んだ方が絶対に安くなります。

ということで感謝×宣伝返しはこれくらいでいいかな?笑


さて、僕も8ヶ月の旅を終えて日本に帰ってきた。まだ、書きたいことはあるので少しずつ書いていこうと思う。今月中に形にして終わらせる予定で整理をしているところだ。青木優君のようなhow toではないにしろ、僕が感じた事をGumroadを使って発信したいと思う。


世界一周に価値はない と断言し、人々と文化とセックスしろ。と行った割には、随分インドアな旅をしていた。もはやシエラレオネに住んでいた。それは何故かと考えた時に、自分が大学を退学したときの退学理由にその原因があった。理由は2つ書いたのだが、1. アフリカの現実を知る事。2. 経験するスキルを得る事だった。1. アフリカの現実を知る事。これは僕の脳では シエラレオネを知る事。も意味していた。アフリカに行った理由はシエラレオネを知りたかったからだ。貧しい貧しいと言われたその国を。


この記事を読んだからといって、本当にファッションではない旅が出来るのかはわからない。そもそもファッションとそうでないものの違いが曖昧だし、ファッションであろうとも海外に出る事に価値がある。だから、今は世界一周を無闇矢鱈に否定はしない。ただ、この記事を読んで世界一周とは、旅とは何かを考えるきっかけの一つにしてもらいたい。何故なら、自省も旅の醍醐味だと筆者は考えるからだ。筆者も「種を蒔く」ような存在になりたいのかもしれない。