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2012/04/23

ICU退学2年目 中間レポート



理由を再び
 「社会の圧力」とはあってないようなものだ。この圧力は体感するというよりも、勝手な被害妄想でしかないけれど、その想像がもたらす圧力は随分力強いと思う。そして、その圧力は世代や性別、そして身を置いている環境で随分と異なるものだと思う。今回は、ICUをやめてアフリカから帰国した僕が感じたそれについて書きたい。そして、その圧力から逃れて自分が何をしていくのかを書いて、読者に石川純が何をしているのか晒そうと思う。つまり、ICU退学2年目中間レポートだと思ってもらっていい。

 さて、いくつかの機会、会った人ごとに自分がICUを止めた理由や村の話、アフリカの話をしてきた。それを今回は文章にしようと思う。まず、僕がICUを止めた理由は3つあった。

1. 金銭面
2. アフリカの現実
3. 経験するスキル

1.金銭面
 家庭的な事情と大学の学費が釣り合わなくなった。退学した後に家庭の経済状況を知ることになるが、両親に払わせることができないと気づく。現時点ではICUに戻る予定だが学費は奨学金でやりくりしながら、自分で払う他ない。それこそ、一年後にはパトロン募集したいところだ。


2. アフリカの現実
 テレビに映し出される、お腹を大きくした肌の黒い子供達が本当にいるのか。貧しさ、豊かさが何かを見たかった。ICUという環境を活かすために、勉強よりも先に現実を見たかった。

3. 経験するスキル
 自分がのばせる部分は学力よりも経験値だと思った。要は、他の人ができないような経験をしたかった。(事実した) そして、その経験が新しい次の経験に活きる。そのサイクルを作りたかった。

この3つが大学を止めた時の考えだった。


大学を辞めて
 大学をやめて旅に出るためにアルバイトを始めた。結果から言うと、僕には数ヶ月で●●円貯めるということができなかった。理由をこれから言う。それはただの甘えで「平成生まれ」とか「ゆとり」とか言われてもしょうがない。ただ、それは俺がその「だらしなさ」を持っていただけで、すべての人に適応されないということを、伝えておきたい。自分がアルバイトを続けられなかった理由は、簡単に言えば、現実と理想に大きなギャップがあった。「自分はできる」って何となく思っていた。しかし、自分が入りたいようにアルバイトのシフトに入り続けられる訳ではないし、家賃を払うともなると、さらにお金を貯めるのが大変になる。だから、目的が「旅にでる」で手段である「アルバイトでお金を貯める」がうまくいかず、随分と落ち込んだ。その時に学んだことは、自分は当たり前のことをできない人間だったということ。いわゆる「社会」に適合するには知識も技術も忍耐力もなかった。

 
 そして、再びアジア学院で3ヶ月農業をした。英語も勉強した。アフリカ人の友達も増えたし、この頃から、「コミュニティ」に興味が湧いてきた。それが今の村作りに繋がる。アジア学院は異空間だ。時間を作って是非、参加してみた欲しいと思う。


 ここで、僕の英語能力について少しだけ挟んでおこう。僕の英語能力は随分、酷いものです。中学校はまともに学校もいってなかった。でも、高校では比較的努力したと思う(センター試験のために努力した人とは比べ物にならないほど語彙がない)努力はしたけれど、学年TOPにもなっていない。ぎりぎりでICUの推薦を頂いたものの、酷く苦労した。当時は、少しずつ話せるようになったと思う。実際、英会話という点で最も良かったのは、アジア学院だった。英語がコミュニケーションのためのツールでしかない。と体感させてくれた。


赤い土とつぶやきの上で
 「アフリカどうだった?」という質問はとても難しい。なんと答えればいいかわからない。きっと、聞いてくる方も、どんな質問をすればいいのかわからないのだろう。「アフリカで何してたの?」と聞かれると、「何もしてない。アフリカを見てきた。」と答える。みんなが期待するようなことは正直、なにもしていない。しようと思ったけれど、そこまで行動しなかったのが事実だ。ただ、身の回りにおこる、シエラレオネの当たり前を見ていた。と言えばいいだろうか。とにかく、アフリカで現実を見れたことは大きい。そして、日本ではできない経験を少なくともできたし、感覚もずれたと思っている。そして、何より旅をした。だから、達成感はないが退学した3つの理由を達せた。


 この2年間で、大きな変化を作り出した基盤は twitter だ。「変化の源はtwitter」というのはもはや月並みな言葉になりかけていて、使いたくない。しかし、事実twitterは大きい。興味の矛先を自分たちで探し合って、かつ繋がれる。出会い系ではなく、「twitter」だ。twitterで出会ってくれた人、批判をくれた人、そして有益なつぶやきやblogを発信し続けてくれる人にはこの場を借りて感謝したい。


 と言いつつも、一週間ほどtwitterを止めていた。その理由は、精神的に不安定だったからだ。しかし、実際はtwitter中毒になっていたと気づいた。一週間前にiphoneからtwitterのアプリを消した。その瞬間とてもすっきりした。本当に。(ちなみにmixiのアカウントは消した) 僕にとって、twitterは出会うため、情報を発信、受信する場所だという認識がある。逆にfacebookを友人達との交流の場と認識している。一週間経って、twitterを再会したのは、精神的にも社会的にも安定したからだ。さて、次からは最近のことを話したい。



デザイン
 アフリカにいる時、自分はデザインをしたいと気づいた。正確な思考のルートはこうだった。
「村に必要なものは何か」
     ↓
「衣食住。その真ん中にアートがある」
     ↓
「食は少し触ったし、衣服は自分じゃない。」

「住を自分のプロフェッションにしよう」
     ↓
「建築をするために自分のアートのスキルをあげたい」
     ↓
「自分に身近なデザインはWebだ」
     ↓
「バイトの面接で落ちたときに、自分がやりたいことを一つ見つけた方がいいと言われる。」
     ↓
「自分がやりたいことは、広告、デザイン、企画だと気づく」
     ↓
「SOURのPVを思い出して、これを作れれば、面白いことになるのではないかと思う。」
     

 こんな流れでインタラクティブデザイナーになろうと決めた。そして目指すクリエーターは川村真司さん。Webデザインのバイトをしようと思っていたけれど、気持ち良いくらい書類で落ち続けた。シェアハウスも決まっておらず、彼女との関係も悪化。ということで、一週間前は「家なし職なし彼女なし」と嘆いていた。この頃は辛かった。ネットでは評価してくれる人がいたし、自分でも自分がしてきたことに価値があったと信じていた。しかしそれが認められないんだなと被害妄想していた。(ただWebデザインの技術がなかっただけ(笑))


 そんなこんなで、デジタルハリウッドのデジタルコミュニケーションアーティスト専攻に通うことを決めた。技術がないと仕事ももらえないのは当たり前。しかし、何よりも自分がやりたいもの。自分の武器にするものを決められたことは、自分の人生でも大きな意味を持つ。自分の人生のターニングポイントと言える。今年はアルバイトとデジハリに集中して、来年はICUとデジハリのダブルスクールをする予定だ。それが決定したから居酒屋のキッチンでアルバイトとして働こうと決意した。理由はシェアハウスで料理を振る舞いたいから。最初は皿洗いしかできないけれど、皿洗いさえも楽しみなバイト前日だ。


 今、大学で学びたいことはいくつかある。平和研究、開発研究、情報科学だ。実際、自分の基礎学力は酷く低い。だから、高校の勉強をやり直してい所だ。だから、今年は、デジハリ、一般教養、シェアハウスを中心に生活する予定だ。以上、中間報告でした。


以下、SOUR×MASASHIKAWAMURA

面影の先
日々の音色
移し鏡

2012/04/10

シェアハウスの陣





一言言いたいことはこれです。「シェアハウスするのは難しい!」色んな点で妥協すれば、どうにかなるとは思う。でも、今はまだ妥協しない。今はとにかくできることをやってみるしかない。

シェアハウスって、僕ら界隈、つまり年代的には ありえないこと ではないんです。事実、している人はいる。ただ、人数が増えると難しかったりする。大家さんや管理会社は僕らとは年代が違うし、常識が常識ではない。だから僕らは非常識と呼ばれてしまう。そもそも、常識なんてものは国、県、街、年代で変わってしまう。つまり、常識とか世間一般というものは、その人界隈の情報でしかないわけですよね。そんな人々と暮らしたり、ビジネスをしたり、何かを交渉するということは、相手側のバックグラウンドを理解しないと難しい。交渉する方(シェアハウスだと僕ら)は、頭を使わないといけない。頭を使っても、読み取れない常識もあったりする。だから、難しいんですよね。



正直なところ、このシェハウスプロジェクトはストレスになります。もちろん、お仕事をしてらっしゃる方は毎度毎度そんなストレスを抱えているのだと思います。だから、不動産で僕の担当をしているOさんには気を使っていますし、気を使っていても、意外な所でストレスをかけていると思うわけです。不動産をいくつも回ったり、不動産の人にこれだけの身内ネタを話すというのは初めての体験。まだ、僕らはシェアハウス決定していませんが、これが決定した時の僕らの喜びが、Oさんの喜びを作るんだなと思いました。


僕はシェアハウスをして自分の空間を持ってみたいんです。人の出入りもきっとあるでしょう。ただ、ここが自分の場所である。というのを持てる事、つまり、HOUSEを持てる事って確かに重要なことで、それぞれの人生に多大な影響を与えるんですよね。僕の人生を大きく変えたのも、高校の寮生活だったと昨日認識しました。大半の人は複数の人と住む事はあまりないと思います。それに、寮生活をした人が再び、長期の複数の人と住む事(家族以外)をする人も少ないと思います。今は増えてきていると思いますが。


ただ、アフリカに行って思う事は、昔は複数の人と住んでいたんですよね。もちろん、家は別々だったとしても、その家と家の近さがあったし、井戸を共有していたと思うし。複数の人と住む事ってストレス、つまり精神的負担があるとは思います。でも、きっと楽しいと信じています。きっと楽しい。ただ楽しいだけじゃなくて、仕事もできると思うし、色んなアイデアも出てくると思います。でも、何よりも、楽しさというか、「幸福」に繋がるんじゃないかなと思うんです。

2012/04/02

おじいちゃんとおばあちゃん

3月28日にNPO法人UbdobeのWell CONというイベントに参加してきました。簡単にどんな場だったかというと、「食べて、飲んで、学んで、話して、出会って」 という、用は、ソーシャルグッドな合コンでした! 何故、このイベントに参加したかというと、この団体の事務局長である@_tomomi_さんが高校の先輩だからです!(どどん!)いやー。こんな面白いことをしている先輩がいて僕は幸せです。tomomiさんは僕の二つ上の先輩でした。高校一年生のときの三年生って凄く違う存在に見えたりするものですよね。その中でもtomomiさんはもう、女神ですよね。今でも女神です。はい。ということでそろそろ自重して本題に入ります。

流れとしては、
1. 福祉施設従事者の対談
2. ワールドカフェ
3. フリータイム
でした。

 ワールドカフェとは何かというと、ミーティングにあるような固い雰囲気ではなく、柔らかい雰囲気でアイデアを広げていこう。という話し合いの方法なんです。詳しくは検索してみてください。秋田県由利本荘市という僕の街があるのですが、そこでイベントを開く際にワールドカフェを二度行いました。しかし、参加は初という事で積極的に話させて頂きました。


 そのテーマの主旨は「おじいちゃん、おばあちゃんの幸せとは」でした。
このワールドカフェで出てきたのは、大きく分けて2つです。


1. 自分たちの幸せとは。
2. おじいちゃん、おばあちゃんの幸せとは。


そして出てくるワードはこの3つでした。

1. 共有(つながり、笑い、)
2. 健康
3. お金(年金)


このワールドカフェで僕が感じたことを羅列だけして
読者の皆さんに、このテーマについて考えてもらいたいです。


・幸せといったら、僕はすぐに引用したい言葉が、"Happiness only real when shared"なんですね。何度も出していますね。そう。「幸福は共有したときのみ現実となる。」です。

・WHOの健康の定義にも出てきますが、健康は、身体的な意味だけではなく、精神的、社会的にも満たされているということを指すことは頭に入れておきたいですね。

・「家」の存在って大きいと思うんです。家、帰れる場所、が精神の安定を司っていることってありませんか?高齢者になると、グループホームがありますが、そういう意味もあると思います。


さて、皆さんは、どんなおじいちゃん、おばあちゃんになりたいですか?
そして、そのためにはどんなシステム、環境が必要でしょうか?


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